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別府竹細工の歴史

別府竹細工は、景行天皇が九州熊そ征伐の帰りに別府に立ち寄った際、お供の膳伴(台所方)が、良質の竹の多いことを発見して、メゴ(茶碗かご)を作ったことがはじまりと言い伝えられています。
 
室町時代には、木地師(木をくりぬいたり、ロクロで挽いて椀や盆などを作る職人)が塩桶から竹を用いた塩かごを発案したことから、行商用のかごが販売のために生産されるようになったともいわれています。
 
江戸時代に入ると、日本一の温泉地別府の名が全国に広がり、各地から別府へ湯治客が集まるようになったのです。湯治客が滞在中に使用した飯かご、米あげざるといった竹製の台所用品が土産品として持ち帰られ、竹細工がたくさん作られました。
飯籠
明治35年、竹工芸近代化のための技術者育成を目的とした別府浜脇両町学校組合立工業徒弟学校(現 大分県立大分工業高校の前身)が創立されました。徒弟学校には、将来性を見込んで全国から多くの竹職人が集まり、今日の優れた製造技術の蓄積、別府竹細工の礎を築き、別府の地場産業として定着していきます。
「別府竹細工」は土産品の域を越え、高度な技術を集約した工芸品へと発展していくのです。
 
昭和13年、大分県立工業試験場別府工芸指導所が開所され、竹細工の技術を向上させるとともに、昭和14年には大分県傷い軍人職業再教育所(現 大分県立竹工芸訓練センターの前身)が大分県により設立されました。そして、今日においても日本で唯一の竹工芸の専門訓練校として、多くの技術者を輩出し続けています。
 
昭和25年、竹細工の更なる技術発展を図るため、本市において別府市工芸研究所(現 別府市竹細工伝統産業会館の前身)を設立し、竹細工の試作研究や生産者への技術指導を行いました。
 
これまで順調に発展を続けてきた別府竹細工ですが、日本経済が高度成長期に突入した昭和30年代、安価なプラスチック製品の普及により、竹製品の需要減少の危機が訪れます。
盛籠
しかし、これまでに蓄積された高度な技術と、市場の変化に対応する活力を持った別府竹細工は、高級竹製品へと転換を図り、日用生活品とは一線を画していきました。
 
その結果、大衆工芸とは別の美術工芸という高い次元の道が開拓されるようになります。技術的な昇華のみならず、造形性を高めた竹工芸作家が多く輩出されるようになり、その極めとして、昭和42年には別府市の生野祥雲斎が竹工芸では初めて人間国宝に指定されました。
 
昭和54年には、別府竹細工は通産省(現 経済産業省)から「伝統的工芸品」の指定を受けました。産地別府では、竹資源の有効活用や伝統技術の保護・育成事業に取り組みつつ、竹工芸の歴史を刻み続けています。
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